この催しは終了しました

開催日
2021年11月7日(日)
時間
14:00〜15:30
場所
川西町フレンドリープラザ・ホール(ステージ上)
料金
500円
定員:40名

定員に達しましたので、申込みは締め切らせていただきます。


疎開先・川西町で完結した建築調査。忠太が最後にスケッチした建造物とは…

『妖怪を見た男』(山形テレビ2005年)の上映とトーク


山形県米沢市が生んだ近代建築界の巨人 伊東忠太(1867〜1954)。建築家・建築学者としての活動だけでなく、文化財保護活動の礎を築き、首里城解体を直前に食い止めたのも忠太でした。また、忠太は、日本画家・探検家など、実に多彩な顔も持っていました。その極めつきが「妖怪漫画家」です。

代表作の築地本願寺、一橋大学兼松講堂などには、多くの「妖怪」が棲みつき、彼の建築表現は、謎に満ちあふれています。彼は、いかにして、こうした建築表現に至ったのでしょうか…。

上映作品「妖怪を見た男」(山形テレビ2005年)では、日本建築学会などの協力を得て数々の資料を発掘、「妖怪」をキーワードに忠太の建築思想の核心に迫ります。

昭和20年6月、忠太は、戦火を逃れて、現在の川西町下小松(旧犬川村)に疎開。78歳という高齢ながら、人生最後の建築調査を置賜一帯で行ないます。彼の野帳(フィールドノート)に描かれた最後の建造物とは…。これまで、ほとんど語られることのなかった川西町での疎開生活について、未公開証言を中心に、数々の秘話を紹介します。


講師

庄司  勉(しょうじ つとむ):山形テレビディレクター


井上ひさし研究会会員。山形県出身。大学卒業後山形テレビに入社。報道記者を経て番組ディレクター。
主な作品:1999年「その時、私は14歳だった~戦時下の性暴力と心の傷~」(第37回ギャラクシー賞選奨)。
10年「瀧山信仰~中沢新一 消えた巨大霊場を歩く~」16年「希望の一滴~希少難病に光!ここまできた遺伝子治療~」
(第13回日本放送文化大賞準グランプリ)。映画「奇跡の子どもたち」(2018年キネマ旬報ベストテン文化映画部門4位)


伊東忠太とは


伊東 忠太(いとう  ちゅうた)

1867年11月21日(慶応3年10月26日) - 1954年(昭和29年)4月7日) は、明治から昭和期の建築家、建築史家である。号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・早稲田大学教授。 山形県米沢市出身。米沢市名誉市民第1号。

経歴
1867年(慶応3年) 米沢に生まれる
1871年(明治4年) 藩学・興譲館入学(5歳)
1873年(明治6年) 父・伊東祐順が軍医を志願し家族と共に上京、番町小学校入学
1878年(明治11年) 父が下総佐倉の連隊附の軍医になったため佐倉へ移り、鹿山小学校に編入(13歳)
1879年(明治12年) 旧制鹿山中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)入学
1881年(明治14年) 東京外国語学校独逸語科入学
1885年(明治18年) 同校の廃止により第一高等中学校編入。一高在学中には米沢出身の同級生達と共同下宿生活をおくり、郷党会の発起人になる
1892年(明治25年) 帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)卒業、卒論は「建築哲学」、同期生に山下啓次郎らがいた。伊東は大学院に進む
1893年(明治26年) 「法隆寺建築論」を発表
1897年(明治30年) 帝国大学工科大学講師
1899年(明治32年) 帝国大学工科大学助教授
1901年(明治34年) 工学博士[1]
1902年(明治35年) 建築学研究のため3年間留学(中国、インド、トルコ)
1905年(明治38年) 欧米経由で帰国、東京帝国大学教授
1923年(大正12年) 明治以降老朽化し取り壊しの決まった首里城正殿の保存に鎌倉芳太郎らと共に尽力した[2]
1928年(昭和3年) 帝国大学を定年、東京帝国大学名誉教授。早稲田大学教授(1938年まで[3]。)
1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員
1943年(昭和18年) 文化勲章受章
1951年(昭和26年) 文化功労者
1954年(昭和29年)
2月26日 米沢市名誉市民・第1号となる
4月7日 逝去。享年87

ウィキペディアより




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アクセス

  • 米坂選羽前小松駅で下車、東口より徒歩5分
  • 東京から山形新幹線、米坂線利用で、羽前小松駅まで最速約2時間30分
  • 東北中央自動車道(東北道福島JCT経由)米沢北ICから20分